ここはコラムのバックナンバーです。過去の作品を各話・または同一テーマ毎にまとめてあります。

コラム・バックナンバー



第13回:競技に賭ける人生

アテネを主舞台としたオリンピックが、盛況のうちに終了した。
 日本選手の活躍が声高に喧伝されているが、国籍・成績に関わらず、参加した殆どの選手が4年に一度の大会を謳歌出来たものと思う。
 その中には、クーベルタン男爵が言ったと云われる『参加することに意義がある』という言葉通り、参加そのものを楽しんだ人も居たことだろう。内戦や占領によって混乱している国からも多数の選手が派遣されており、満足な練習も出来ぬまま、それでもこの国際的なスポーツ祭典に参加出来た事そのものを素直に喜び、帰っていった人も多いと信じたい。
 さて、そんな中、野球の解説として呼ばれていたプロ野球前阪神監督の星野仙一氏が、解説中に面白い事を言っていた。
 『日本は、個人種目は柔道でもレスリングでも強いんだけど、何故か集団種目(野球を含めてバレーボール、バスケットボール等)は弱いんだよねえ〜。』
 確かに、メダル争いの結果を見れば、ご指摘の通りである。明確な数値的根拠を示せる訳ではないが、団体系競技は概ねヨーロッパ系が強いように思える。今回は、それと関わりのある話をしてみたいと思う。尚、今回は精神論の話であり、各種の比較をする場合は精神面以外の肉体的条件は同じであると仮定して話を進めているのでご留意頂きたい。

 スポーツ(特に単独競技)は古来、格闘技や槍投げ・ハンマー投げ等、戦闘技術に直結するものを起源とするという説がある。確かに、短距離走は戦場に於ける先駆けの為、幅跳びは防護壕(お堀)を飛び越える為、槍投げやハンマー投げは槍や砲弾をより遠くから敵陣に投げ込む為、棒高跳びは柵を乗り越えて敵陣に侵入する為、と見れば、そのように考えられなくもない。それに比べて、後世になってからその多くが趣味的な目的で発展したと考えられる団体競技は、命のやり取りに直結するような厳しさはない。
 勿論、例外も多数ある。バトミントンや卓球の個人競技は戦闘技術とはとても思えないし、逆にラグビーのような激しい団体競技は歩兵戦闘のシュミレーションと考えられなくもない。しかし、少なくとも古代オリンピックの時代からあるスポーツは、その目的の一つ(奴隷同士を戦わせ競わせて楽しむ)から考えてもかなり激しさを含むスポーツであるように思う。
 その、個人競技で勝てるようになって来た日本選手は、恐らく体格・運動能力の向上といったハード面での能力だけでなく、終戦後永らく日本人が失っていた『精神面の強さ』を取り戻しつつあるのではないかと、塾長は考える。…但し、戦前の日本人の精神面の強さが『自立的』な強さであったのに対して、戦後(特に最近)のそれは『排他的』な強さであるように見える。その点が、やや気がかりだ。
 ともあれ、精神面に限れば日本人が世界の舞台で戦える強さを取り戻しているはずなのに、何故団体競技ではそれを発揮出来ないのか?それに関する塾長の持論は次の通りである。即ち、

『団体競技に於いては、個々の精神的強度と共に団体としての団結の強度を併せ持つ必要があるが、排他的な強さは後者の育成を阻害する』

 極めて乱暴なたとえを使ってわかりやすく言い換えてみると、『暴力団の組員を、所属する組に関係なく強い順に集めて新しい組を作ったらどうなるか?』という事だ。きっと、内部で対立するばかりでチームワークの育成は進まないだろう。個々の強さと、団体としての強さは必ずしも一致しないのだ。
 ではなぜヨーロッパ系(欧系)のチームは強いのか?これもかなり穿った見方だが、欧系民族の選手が伝統的に団体競技に強いのは、常に侵略と被侵略を繰り返し、『昨日の敵は今日の友』であったり『昨日の敵が今日も敵』であったりという関係の変化が日常的だった中世ヨーロッパの政治的・地政学的背景が、個々の強さと団体としての強さを同時に併せ持つ民族を作り出したからではないかと思っている。外敵に襲われた場合には極めて強い結びつきで団結し、一方その団結内部に於いても対立する場合はきちんと自己主張する。その使い分けが容易に出来る欧系民族は団体競技に極めて適応しているように思える。(
 さて、では実際に選手を育成する上ではどんな『強さ』を念頭に置くべきなのか? コーチとしていつも思い悩むのは、この『強さ』という概念である。
 ただ勝つ事だけを追い求めれば、シングルスのような個人型競技の選手には、他者を蹴落としてでも自分だけの利益(=勝利)を追求出来る精神力が求められる。
 しかし一方、世界を舞台にテニスでメシを食ってゆけるのは、日本でもほんの数名である。日本という国はヨーロッパと違い『昨日の友は今日も友』という『和合』を尊ぶ民族が主流であったように見える。この国の中で突出して『強さ』を発揮すれば、メシは食えても仲間からは疎んじられる懸念が大きい。実際、日本の元トッププロテニス選手(女性)には『仲間から遠征中に同室するのを嫌がられた』という逸話もある。
 『他人から嫌がられるようでないと勝てない』という現実からすれば彼女は成功したのであり、実際その通りの成績を残しはした。しかし、幼少の頃から仲間や友達との付き合いを犠牲にしてまでトッププロを目指すのを『是』としても、万一失敗したらどうするのだろうか? 和合を旨とする日本社会の中で適応出来ず、孤立するような人間を育ててしまっても良いと言うのか?
 ジュニアの選手を育成するには、そんな事も考えながら、親御さんと良く話し合う事にしている。しかし、多くの親御さんはそんな事まで考えていないようで、『うちの子を強くして下さい!』と勢い込んで言うのは良いが、その点を指摘されて初めて『それもそうだな…』と考え込む場合が多い。
 理想を言えば、どちらかと言うと団体競技向きの指導を始めて、才能と性格を見極めたうえで個人競技向けの指導を考える、というのが良いのだろうが、いまだに誰も明確な答を見つけられていないようだ。『たかがスポーツで』と意外に思うかもしれないが、日本と言う風土が、その答を見つかりにくくしているのだろう。それを思うと、団体競技の監督に欧米人を招いたり、欧米式の指導に流れていくのはやむを得ないかも知れないが、もっと日本的で、強くなれる指導法はきちんとある。
 ただ、まだ第一線の指導者の誰も、それに気付いていないだけだ。

2004.09.06 Copyright(C)しんのすけ


★迷惑メール対策としてメールアドレスに細工をしました。メールリンクタブ(上の『本サイトに関する…』の黄色い画像)をクリックするとメールソフトが立ち上がりますが、あて先(メールアドレス)の本来『@』マーク(小文字)となるべきところを『●』にしてあります。ご面倒ですが、『@(小文字)』に直してご使用下さい。
メールソフトがうまく立ち上がらないなどの場合は、ご面倒ですが次の文字列をコピーし、同様に『●』を『@(小文字)』に変えてご使用下さい。
edail●sutv.zaq.ne.jp



since 2002.12.31  Copyright(C)しんのすけ