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第23回: "専門家" 考
今年3月11日の大震災は、数百年に一度かそれ以上という巨大な災害であった。この災害そのものについては既にあちこちで語られているが、それを語る際に
『予想を超える』
『想定外の』
といった語句が繰り返し出て来たのが気になった。それも、素人ではなく所謂『専門家』のお歴々の口から、である。
福島の原発事故では、世界に誇る最先端の技術を持った専門家集団が何度も『予想を超える』『想定外の』という言葉を発し、メルトダウンという最悪の事態を招いてしまった。津波にしてもそうで、地震研究では世界でも指折りと評価の高い東京大学の教授陣=地震専門家が、被害を予測出来なかった理由として堂々と同じ言葉を吐いていた。一般人にすれば
『素人に予測出来ない先の先を予測する(出来る)のが専門家ではなかったのか?』
と思えるのに。
そもそも、『専門家』とは何だろうか? 一般人はついつい
『その道のプロで何でも知っている人』
と思ってしまうが、その推測は半分しか当たっていない。即ち、その道でメシを食っているのだから『プロ』ではあるが、『何でも知っている』訳ではないのだ。
身近なところでは、医師や弁護士をイメージすると良い。超難関試験を突破して国家資格を持つ彼らはまさしく『専門家』と呼ぶに相応しいが、例えば整形外科医に皮膚病のことを尋ねてみれば、恐らく十中八九『よくわかりません』との言葉が返って来る。民事専門の弁護士に刑事事件を依頼しようとすると大抵は断られる。医師法で『医師』は全ての診療科の患者を診られることになっているにも関わらず。弁護士もまたしかり。
人間一人の知恵の総量など大したことはなく、一人の医師が外科・内科・整形外科・婦人科・皮膚科・肛門科・眼科など全てに精通することなど考えられない。『六法全書を丸暗記している』と言われる弁護士も、六法全ての法解釈や過去の判例に至るまで全て記憶出来ているはずもなく、おのずと得手不得手な分野が出来てくる。一方で、狭い範囲の知識であれば素人でも手に負えない訳ではなく、例えば法学も自分の仕事に関係することなら条文や解釈程度は自然と覚えてしまえる。医学も自分のかかった病気のことであれば必死になって調べ・記憶するので、専門医が舌を巻くような知識を持つことも可能だ。
その意味で、専門家とは
『その分野を専門に扱いそれによって収入を得ている人』
と言うことも出来る。
塾長などは後者の意見の持ち主で、法律でも医学でも自分に興味のあることは徹底して調べるので、時には専門家と深い話を交わすこともある。しかし世の中には『専門家崇拝』を捨てられない人が多く、かつてマンションの理事会でクレーマー住人と面談した際にも、その住人の行為が法的に問題があることを切り出したとたん
『あなたは法律の専門家か!!(=専門家様でもない癖に法律のことを語るな)』
とわめかれ、挙句に勝ち誇ったような顔をされてしまった。ちなみにこの時は特段重要な面談でもなかったので、塾長も
『(嗚呼、ココにも「専門家教」の熱狂的な信者が居たか…)』
と苦笑いして受け流すしかなかった。このように哀れなまでに盲信する人ばかりではないと思うが、多くの人が『専門家』の肩書きを出されるとそれだけでビビッてしまうのが正直なところだろう。だが、国家資格を持つ藪医者は現実に存在する。塾長が文部科学省の認定する『公認テニス教師(※旧・JPTAプロ)』の専門家資格を取らずに頑張っているのは、そのことへの反発も大きい。
吾が身を振り返ってみれば、コーチという職種の片隅に足を置いている以上、塾長もテニスについては『専門家』と言うことが出来る(といいなあ)。但し、自分ではあくまで後者のタイプの専門家であると思い、増長しないように常々心掛けている。それでも、人間の器が小さい悲しさ、心の奥底で時折前者の専門家の顔が鎌首をもたげて来る。そんな時に自戒を込めて思うのが、
『職人』
になりたい、ということ。
塾長の定義で言うところの『職人』とは、日々その道を研究するだけでなく実践し、絶え間なく技術の習得を積み重ねる人々のことである。他人の評価や難しい学問の習得があれば足りるものではなく、日々自分の感覚を磨き、技術を高め続けるしかないが、その行く末にゴールは決してない。それでも、微細な部品を作る工業職人なら1マイクロメートル(=百万分の1m=0.001mm)の違いも指先で感じ取るし、染物職人なら藍の匂いや味のごく僅かな違いで染め上がりの色がイメージ出来る。竹細工職人は一本の竹から繊細な120本立の茶筅(ちゃせん)を作り出し、大工職人は鉋(かんな)で向こうが透けて見えるような鉋屑を挽くことが出来る。
全てはゴールの見えない修業の道を歩み続けた先にあるもの。こればっかりは幾ら専門家が机上で見事な理論を振り回しても太刀打ち出来ないだろうと、塾長は思っている。
大震災で未熟さを露呈した地震専門家・原子力専門家・津波専門家・災害専門家等の面々も、専門家ではなく職人であれば対応も違ったかも知れない。人間の技術の素晴らしさと同時に脆さを知り、更に自然の力の偉大さを認めていれば、謙虚に『人間の力の及ばない時』を考え続けることが出来て、結果もほんの少し違ったのではと思える。『最高学府の教授』『専門機関のTOP』といったゴールを見てしまったことが、彼らから謙虚さを奪ったような気がしてならない。無論、未だその仮のゴールにさえ至っていない自身は、謙虚さを失うなどもってのほかと自戒を続けながら職人を目指し、日々研鑽を続けるしかない。
2011.11.16 Copyright(C)しんのすけ
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